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第4回情報広告研究会 開催レポート(後編)

※第4回はゲストスピーカーでお招きした、加藤貞顕氏(株式会社ピースオブケイク代表)と境真良氏(国際大学GLOCOM、経済産業省)それぞれの講義を2回に分けて公開しています。
→前編:加藤貞顕氏(株式会社ピースオブケイク代表)「広告表現の可能性とコンテンツ」を読む

 
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【講師プロフィール】
境真良
1968年、東京都生まれ。学生時代よりゲームデザイナー、ライターとして活動。1993年、東京大学法学部を卒業。同年、通商産業省(現・経済産業省)に入省。その後、東京国際映画祭事務局長、早稲田大学大学院客員准教授、(株)ドワンゴ等を経て、国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)客員研究員として活躍。2015年度現在、大妻女子大学、女子美術大学、津田塾大学で非常勤講師も務めている。専門分野はIT、コンテンツ、アイドル等に関する産業と制度。私的にもアジアの都市文化融合現象を16歳の頃から追っており、趣味は海賊版収集の他、アイドル研究、読書(マンガ)、コンピュータいじり等。

 
-INDEX-
テーマ:「『広告2.0(3.0じゃないよ)』の可能性と限界のメカニズム」
■IT化により開放された、コンテンツの流通システム
■マスメディアが死なない理由はコンテンツの質がいいからではない
■プロダクトプレイスメントとステルスマーケティングの間
■電波少年は、ステマか、モロマか
■広告のコンテンツ化に成功した、ソフトバンクの白い犬
■罠にはめられてブログが削除される、コンテンツの脆弱性
■業界団体の崩壊とプラットフォーマーの台頭
■安全なビジネスのための技術的ソリューション
■秩序の主催者は国か、プラットフォーマーか

 
テーマ:『広告2.0(3.0じゃないよ)』の可能性と限界のメカニズム
■IT化により開放された、コンテンツの流通システム

今日は、広告の世界で何が起きているんだろうということを押さえながら、仕組みの話ができればと思っています。そもそも、ITやインターネット、パソコンという機械を持つようになって何が変わったかというと、コンテンツの流通システムが開放されたんです。昔はテレビ局や電通に勤めている人、大きな編集の機械を触れる人など以外は、コンテンツを作ってバラまくことはできませんでした。それが、自分の家にコンピューターを持つようになって誰もができるようになったんです。これによって何が変わったかというと、一つは表現の世界が無秩序化したということです。これまで業界の中で「こんなコンテンツは作ってはいけない」、「こんな広告を作ってはいけない」というルールは業界団体が決めていたわけですが、団体に入りたがならないプレイヤーが多かったので秩序が作られませんでした。いい側面でいうと、広告のプロセスが可視化されるようになったということです。昨今ではIoT(※)ということで、いろんなものに画面が付くようになりました。人の目に触れる画面が増えるということは、当然広告も生まれます。人に情報を伝えて、いろんな過程の中で、モノを買いたいと思わせる広告デザインがしやすくなったんですね。昔は広告とコンテンツの関係が限定されており、特定の人にしか作れませんでしたし、コンテンツと広告の関係は変わりませんでした。インターネットが出現して技術的な変化が起き、プロだけでなくアマチュアの人も入ってくるようになりました。電通・博報堂だけでなく、自分で広告コンテンツを作ってばらまけるようになったわけですね。そういうわけで選択肢がえらく増えました。
※編集部注:Internet of Things=モノのインターネット。情報通信機器に限らない、身の回りのさまざまなものがインターネット等に接続し、相互に制御を行うこと。家電に通信機能を持たせて、稼働状況や故障箇所などをメーカーがリアルタイムに把握できる等、さまざまなシステムが考えられる。

 
 
■マスメディアが死なない理由はコンテンツの質がいいからではない

しかし2000年頃、インターネットがマスメディアを死滅させるとよく喧伝されていました。なぜかというとユーザーがたくさん書くから、プロは必要ないんだ、と。時代はUGC(Webサイトのユーザーによって制作・生成されたコンテンツ)、CGM(消費者生成メディア)だと言われていたのですが、それから15年経った今でも、まだテレビ系などの映像が強いわけです。それは単純な話で、コンテンツがいいから悪いからというわけではなくて、コンテンツを見る理由がコミュニケーションにあるからなんですね。週刊少年ジャンプ600万部売れた時代には、大体みんな学校にジャンプを持って行って回し読みするんですよ。それはジャンプを買って持ってきた人間が「俺が一番先に情報に触れた人間なんだ」という宣言であって、そして「今日のワンピース面白かったよね」というところから話が始まるわけです。人間は同じネタを共有しないと、コミュニケーションを図れません。コミュニケーションをしたいときに大事なポイントは、みんなが知っている何かがないと話にならないんです。そんなわけで、マスメディアの情報というのはどこかしらでトリガーになっています。

Web広告については、広告をWebページに貼っておしまいという時代から、アドネットワークが入ってきてダイナミックに調整できるようになってきました。僕らが見ているものは、画面に広告が埋め込まれたものを見ていますから、広告を含めて全体のコンテンツなので、実質的には見ているコンテンツの全体が自動生成しているという感じになっています。最適な広告とコンテンツの組み合わせについては、アドネットワークがユーザーのアクションを見ながら最適解を作るわけです。

 
 
■プロダクトプレイスメントとステルスマーケティングの間

次はステマについてお話をしていきます。ステルスマーケティング問題は、グローバルに認知されています。ステマは広告に見えない広告全般のこと。消費者に誤認混同を起こさせて、本来の事実とは全然違った誤認をするものを指します。例えば、カードゲームなどで全然出ないキャラクターを持ちだしておいて、あたかも当たるように言ってあるとか。ステマは軽犯罪法になります。法律でダメと言われているんです。とはいえ、広告主が騙そうとしているから悪いんだというのは倫理規定じゃないですか、という問題もあります。誤認混同を起こさせたという結果が、本来の問題なわけです。

2000年以降、インターネットが出現してコンテンツが増えた中で、新しい手法として「プロダクトプレイスメント」が流行るようになってきました。日本で一番ストレートにプロダクトプレイスメントが使われたのは2011年のこと。TIGER & BUNNYというアニメで、キャラクターの衣装に広告クライアントの名前が入れられていました。プロダクトプレイスメントについては2000年代に注目されたんですが、実はその昔からこういった手法は存在していました。例えば、西部警察というドラマでは、日産が広告を出しているんですが、日産の車が警察側に使われていて、犯人には絶対使われないんですね。日産の車というと警察官のカッコいい車という印象がつきました。こういった手法は、昔は「タイアップ」と言われていたのですが、2000年代になってアメリカで流行っていた「プロダクトプレイスメント」という言葉に打って変わりました。これもある意味、ステルスマーケティングであるともいえるわけです。日産の車は良い人にしか乗らない、悪い人は乗らない、というね。実際問題として、ステマなのかは悩みどころではあります。

 
 
■電波少年は、ステマか、モロマか

最近では堂々とした広告コンテンツが増えてきました。例として挙げたいのは、この広告。「電波少年の土屋ディレクターが、アポなしでチューヤンに会いに行く」という内容で、チューヤンに会った瞬間にクライアントの商品である缶コーヒーを手渡し、飲ませて、「美味しい!」と感想を言わせるんです。はじめは広告と分からないのに、見ると広告だったという。他にも印象的だったのは、2001年に上映されたエボリューションという映画。僕は実際に映画館で見ていてのけぞりました。この映画はエイリアンが地球にやってきて、どんどん地球上の生物を飲み込んで進化するんですね。そのエイリアンは全然倒せないんです。でも偶然、スーパーで手にしたP&Gのシャンプーをぶつけたら、エイリアンが死んだんですよ。シャンプーを使えば勝てるんじゃないかということで、米軍が大量のシャンプーを注入すると敵が爆発して地球が救われた、というばかみたいな映画なんです(笑)。これ、P&Gの広告映画なんです。映画館に行って、お金を出してみたコンテンツが広告コンテンツだったという。僕の感想は、ウマイ!でした。面白ければ、広告だろうがなんだろうが納得しちゃうんですよ。僕らはこういうのをモロマ、モロマーケティング(堂々とモロに行う宣伝)という言い方をしています。ステマの反意語ですね。

 
 
■広告のコンテンツ化に成功した、ソフトバンクの白い犬

堂々とした広告というのは大事。なぜかというとインターネットの世界であれば、マッシュアップ(組み合わせ再構成)という現象が起きるのは常識だからです。マッシュアップは多くの場合、著作法違反なんです。さらに言うと、アドネットワークの中で組み合わされていくわけで、組み合わせの仕方の中で意図が変わってしまうのはやはり問題なんです。そのとき、要素として提供したコンテンツの制作者は悪いのかというと、「いや、そういう風に組み合わされると思ってないから俺のせいではないよ」となる。プラットフォームにおいても、「こう組み合わせたら、こんな意味が生じちゃうなんていちいち検証していないから難しい」となる。広告の中にコンテンツをどんどん組み込んでいく対極にあるのが、広告自体をコンテンツにしてしまうということです。これについて言うと、日本では分かりやすい成功例があります。ソフトバンクの白戸家のCMです。白戸家については、犬を使うというのが、キャラクターとして秀逸でした。メディアミックスで使う場合は、要素に近いほうが埋め込みやすいんです。白い犬一つで「ソフトバンクだ!」と思われるに至ったソフトバンクは、勝ち組としかいいようがありません。白い犬に肖像権はほぼないですし、コストパフォーマンスもいい。広告とコンテンツを完全に一体化することによって、進化させる。こういう風にステルスマーケティング的な問題から、プロダクトプレイスメントを超えて、コンテンツと広告は一体化しています。

 
 
■罠にはめられてブログが削除される、コンテンツの脆弱性

コンテンツはコミュニケーションの断片です。コンテンツは結局ネタになって、コミュニケーションを誘発するために起きますし、コミュニケーションの断面を切り出すとコンテンツになっているという構造の中で、広告のコンテンツはユーザーたちの間に、「これ買いたいよね」「これいいよね」とコミュニケーションを誘発するために作られているわけです。ところが、そこには脆弱性があって、コミュニケーションをしているのは人間ですから、コンテンツを受け取って、次にどういう人に渡すか、加工するかは全部、人間が決めているんですね。人間は善意もあれば悪意もあります。

今週話題になった話なんですけど、罠にはめられてブログの記事を削除された事件がありました。自分のことをネガティブに思う人間がいて、その人によって自分のブログがgoogle八分(はちぶ)にされてしまったという例です。「そんなことできるのか?」というと、できてしまったんです。「あなたのページは、著作権違反を犯しています」とgoogleから通達があったんです。人の権利を侵害するコンテンツについては、申し立てがあれば事業者の判断によって、まず見えないものにできる。そのルールに従って落としたんですね。でもそのブログには、著作権を違反するようなことは書いていない。悪意のある人間が、コメント欄に他人のコンテンツを剽窃したものを書きこんで、「著作権違法です」とgoogleに通報したんです。このコラム自体に問題はないけど、コメント欄を含めて一つのコンテンツじゃないですか。まさにマッシュアップになっているわけですよ。他人によって悪い物を混入されて、全てが悪い物になってしまったんです。こういうことをするのは良い人ではないけど、うまい手法ですよね。

 
 
■業界団体の崩壊とプラットフォーマーの台頭

所詮ITプラットフォームは仕組みであって、その上に最近は人間の価値評価までを含めて全体の構成ができています。そうすると、ルールが動いている以上、なんらかのカタチでポイズンを仕込んで、相手を落とし込むこともできるわけです。その上で前提となっているのはgoogle内のルールで動いている、ということです。インターネットの世界の上では業界団体が崩壊してしまったので、それに代わって出現しているのが、プラットフォーマーといった仕組みのプレイヤーたちです。そのブログを書いている人は、googleに申し立ての手紙を書いて、記事が回復するんですが、それまで何日間も待たされることになりました。自分の責任じゃないのに、記事が落とされるのは衝撃的ですよね。救済をどうするのかを考えないといけないというフェーズに来ています。

 
 
■安全なビジネスのための技術的ソリューション

インターネットが出現して、広告を取り巻く環境が変わり、コンテンツを取り巻く環境も変わって、自動生成・自動マッチングが生まれました。常態化していく中で、どういう風に安全にビジネスができるだろうか?を考えなくてはいけません。危険な組み合わせを回避するマッシュアップ技術と、最適な組み合わせを生み出すマッシュアップ技術は表裏一体なんです。メタデータのタグを使って、これとこれを組み合わせたらマズイよね、だからこのコンテンツとこの広告はマズイよね、というのを組み合わせて危険を回避するということがあると思います。どういう風にタグを付けていくのか、クリエイティブツールに仕込んでいくのか、AIを使って自動認識をして自動タグ付けをしていくのか。プライバシー情報をとらないと最適化できないので、一筋縄ではいかないと思っています。

 
 
■秩序の主催者は国か、プラットフォーマーか

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それ以上に悩ましいのは、秩序の主催者は誰かということ。広告をどうくっつけるか、どうくっつけないかを誰が決めるのか。まずはプラットフォーマーが一番の秩序の最前線にいるので、彼らが存在感を示していくことになるかと。もちろん、国の法律も秩序の一部ではありますが。自主規制をするのは、いかなる意味においても正しいのか?というと疑問です。実際にはプラットフォーマーが恣意的に止めていいとなると、表現の内容は大きく変わるわけです。これまではこういうことをしちゃいけない、こういう表現はしてはいけないと、国は規制を作るのですが、プラットフォーマーが過剰規制をするんだから、こういう規制はしてはいけない、日本の法律に従って合法な表現は規制してはいけないといったような、「規制を規制する」ような流れになるのではと思っています。国家のルールを上手く使って、プラットフォーマーたちは過剰な規制を排除しながら、広告とコンテンツの間で、いい秩序を形成していくにはどうすればいいのかについて悩まなければいけない時代に来ているのではないかと思っています。